2009年10月14日水曜日

IT:インターネット上の広告指標、CPMに関する意見を紹介

Addicted to the Internet

インターネット広告の分野では、よく知られた用語なのですが
CPM というものがあります。

CPM 【cost per thousand】
読み方 :     シーピーエム
フルスペル :     Cost Per Mille
in IT用語辞典 e-words

CPMとは、Webサイトの広告掲載料金の単位の一つで、掲載1000回あたりの料金。これに掲載対象ページの閲覧数(ページビュー)を乗じて1000で割ったものが広告掲載料金となる。

 最近では、CPM単位での課金は大手Webサイトに限られ、中小サイトではクリック回数あたりの課金や、成果報酬型の課金方式が一般的になっている。

 ちなみに、CPMの「M」は、ローマ数字で1000を意味する「M」、あるいは、その由来となったラテン語で1000を意味する「mille」から来ており、英単語の略ではない。

CPMを殺しましょう, 絶対に生き返らないように

by ゲスト ライター on 2009年9月27日
in TechCrunch

編集部注記: このゲスト記事を書いたShelby Bonnieは、Whiskey MediaのCEO。彼は協同ファウンダの一人として1993年にCNETを創設し、2000年から2006年まで会長兼CEOだった。2001年から2003年までは、IABの会長を勤めた。Whiskey Mediaは、giantbomb.com、comicvine.com、animevice.comという3つのサイトを抱えるコンテンツプラットホームで、傘下のサイトは今後さらに増えるようだ。

よーし、今年のAdvertising Weekも終わったようだな…。オンライン広告の業界は今、沈んでいくタイタニック号の上で演奏しているオーケストラのようだと思わないかい?

たしかに、問題がある。そして私は個人的信念として、解決策はCPM(日本語)を殺して二度と生き返らせないことだと思っている。

私はインターネットのメディア空間に16年いるが、まず最初に自明なことを言っておきたい: CPMはインターネット上のほかのどんなものよりも、イノベーションを矮小化し、製品の品質向上を阻む作用が大きかった。ほかのメディアなら問題なかったかもしれないが、インターネットの上では最悪だ。広告掲載者*として大も小も経験したが(今はまた小だが)、業界全体にわたるCPMの重視と、マーケターや代理店や掲載者が目玉〔人の目玉==広告…のあるページ…が見られた回数〕を数える行為は、意図しなかった混乱だけを招き、その混乱がさらに、どの関係者集団にも役に立たない“ソリューション”の悪循環を生み出した。おそらく、もっと深刻なのは、それがユーザにとってもひどい経験だったことだ。〔*: publisher, ここの文脈では、自分のコンテンツをWeb上で発行し、そのページの上に広告も載せる人、広告の発行者(出稿者, 広告主ではない)。〕

どの広告キャンペーンも最良の意図をもって始まる: “クリエイティブなことをしようよ、ユーザの活発な関わり行動(engagement)のある、ユニークなものを!”。しかし、代理店やクライアント側の古参の誰かが介入しないかぎり、キャンペーンはつねにメディアのバイヤーと彼のあの忌まわしいスプレッドシートのところでエンストする。そのスプレッドシートの2つのもっとも重要なカラムは[インプレッション]*と[費用]だ。皮肉にも、どのキャンペーンにもあるとても良い部分は、“付加価値”として無料で投入される。ある時点で掲載者たちは、クライアントが気にするのはインプレッションだけだと思いこみ、そうかそれならと、成果としてインプレッションのみを報告する。その結果、業界は、浅くて表面的で無味乾燥なインプレッションを毎日過剰生産する脳なしの自動機械になる。同じごみコンテンツ…機械制作または下請けが1本1ドルで作ってるようなコンテンツ…を再掲載するだけの、粗悪なサイトがこれほど多いのはなぜなのか? なぜ多くのサイトが意図的に、何かのトップテンリストや写真集、よその記事の1パラグラフ要約の寄せ集めのようなページばかり、大量に提供しなければならないのか?** 〔*: impression(s), 広告が表示された回数, “到達数”。〕〔**: インプレッションを稼ぐことだけが目的のページ。〕

2002年はIABの会長としての初めての完全な1年だったが、468×60のバナー広告(初期の小さなバナー広告)を業界として禁ずる決定をした。パートナーたちの多くが受け入れていた広告はそれだけだったが、でもそれを禁じなかったら、業界はそれを捨て去るために非常な苦労をなめることになっただろう。そのときの私たちは、勇猛果敢でリスクを恐れない態度が必要だったが、それが先例となって大きな広告もにも対処できるようになり、大きな改善に結びつく活動として全会一致で認めてもらえた。今日の私たちは、それと似た状況にある。CPMの重視が、掲載者、マーケター、そしてユーザにとって有害な数々の行動を生みつつある。それを殺すことによってのみ、私たちは新しい未来を発明する機会を持つ。

なぜCPMはそんなに厄介ものなのか?

* ごみに金を払った者はごみを得る。それは経済学の初歩だ。インプレッションに金を払ったから、インプレッションを得るのだ。ユーザの参加や関わり…エンゲージメント(engagement)…はどうなった? インパクトはどうなった? 製品の実際の売り上げはどうなった? インプレッションは、それを腹一杯食っても、誰の栄養にもならない。
* インプレッションには質の違いがある。つまらないパラグラフが一つだけと12の広告があるページを見ることと、広告は1つだけだがその広告とよく合ったコンテンツがありユーザが夢中になるような話題を扱っているページを見ることには、ものすごい違いがある。ソーシャルネットワークとコンテンツインベントリ*の違いもそうだ。スプレッドシートの上のインプレッション数は、このような違いを表現できない。だから、それはほとんど無意味。〔*: content inventory, 死ぬほど退屈な大量のコンテンツ置き場。〕
* 自然で妥当な制限がない。テレビや印刷物、ラジオなどはある一定量までの広告しか挿入できない。インターネットは違う。1ページあたりの広告はいくらでも増やせるし、ユーザをあれしろこれしろとこづいてインプレッションをかさ上げできる。こんなことを言う掲載者にあなたも会ったことがあるだろう: “インプレッションがそんなに大事なら、1ページの広告を4つじゃなく8つにすればいいだろ”。あるいは: “ユーザが新しいメールを送るたびに違う広告を表示できないの?”。
* それはもはや何も意味していない。あらゆるメディアからのインプレッションの洪水と、毎日ユーザの上に降り注ぐインプレッションの絨毯爆撃の中で、それはもはや、どうでもいいものになってしまった。それは、メディアがまだそう多くなかった時代の遺物であり、元々は特殊な業界用語である。上で述べたように、テレビやラジオや印刷物には自然な制約があるので、それほど過剰にはならない。そこで昔の広告(advertisement)は、元々の‘人の注意を向ける’という意味のとおりに、それを見るだけでインパクトがあり、ユニークだったのだ。今は、そんな時代ではない。
* 年配のマーケターには分かっていても(抵抗したくても)、しかしCPMを軸とする大きな業界構造ができあがってしまっている。それが広告の買われ方売られ方、メディアプラン、RFPの内容などを完全に支配している。良質でクリエイティブな思考が、学卒ほやほやの若造が作ったスプレッドシートの上の無味無臭な数字になって死んでしまう。年配者は自分の考えを通すためにときには彼らと喧嘩をしなければならない(しかしストレスが大きすぎてやってらんない)。
* マーケターの無視につながる。インプレッションの過剰生産の世界では、マーケターの優れた仕事も、よくって無視、たいがいは見てさえもらえない。
* 最後の敗者はユーザだ。. ユーザは大量の粗悪なコンテンツと悪質な広告を与えられる。彼らは文字通り、朝から晩まで広告漬けになっている。

新しいソリューションには何が必要か?

* 単純さ。マーケティングという仕事は、アートだけではうまくいかない。合理的で標準的な、そしてシンプルな、業務手順のようなものも必要だ。たとえば広告キャンペーンの効果を測定し他と比較する方法がほしい。単純であることは、スケーラビリティにも結びつく。そして、掲載者と代理店とマーケターの仕事を効率化する。ただし今われわれが知っているような単純化は、うまくいかないモデルに導く。
* 測度は実際に求めるものの測度であるべき。あなた(広告主)が金を払う対象を、掲載者は大量生産し始める〔CPMに金を払えばCPMが量産される〕。だから、エンゲージメントがほしいのなら、エンゲージメントに金を払おう。測度が一つなのか複数あるのか、それはまだ明らかでない。ユニークビュー、アクション(共有、寄与貢献(投稿など)、エンゲージ)、そして滞留時間などが最初のとっかかりになるだろう。

CPAやCPCはどうか?


* CPA(日本語)とCPC(日本語)が役に立つ状況もあるが、そういう状況は限られている。ユーザがはっきりした目的意識(ナニナニを買いたい、欲しい)をもってページや広告やページを見るときには、これらの測度が十分に役に立つ。でもユーザが知らない・欲しくない・関心がない商品に対し、関心や欲望をもってもらうことは難しい。自分がすでに持っているものやすでに買ったものに関して知識を深めたいから、関連商品の広告をクリックする場合も多い。それもアクションの一種ではあるが、ほかにビデオの視聴、wikiへの貢献、コンテストへの参加、製品に関するTwitter上のつぶやき、リビューの投稿などなど、いろんなアクションがある。だから「クリック」とか「アクション」といった、おおまかすぎるくくり方をすると、今話題にしているCPMの場合と同様に、意図せざる結果のあほらしい一揃いを作り出してしまうのだ。

どこから手を着けるべきか?

* まず、CPMの使用をやめること。そうすると、今業界が愛しているモデルや方式が使えなくなるが、それに寄りかからずに自分の足で立つことが重要だ。結果として起きる混乱の中からクリエイティブな思考や新しいアイデア、そして起業家の情熱が生まれてくるはず。
* そのための専門部会などを作らず全体的な運動にすること。起業家たちを支援して、CPMを広告の価値の測度としない新しい方法の実験を開始すること。失敗する実験も多いだろうが、それらからも学べることはある。業界団体が作る作業部会や委員会などは、事態を悪化させることしかできない。
* オープンソース的な思考。新しい方法は、企業が私有するものであってはならない。全員の参加によって作られ、その利益が自然に全員に共有されるものでなければならない。
* われわれ全員が問題の解決を必要としていると認識すること。敵はシステムであり、お互いではない。

私もすべての答えを知っているわけではないが、メディアに深い関わりをもつ業界のベテランとして、今は全員が一斉に方向転換に取り組むべき時だと言いたい。みなさんの考えを聞きたい(shelbyb [at] whiskeymedia [dot] com)。


〔訳者注記: CPMは、ユーザのパソコン/ケータイ上の広告(のあるページ)の表示回数(1000回)あたりの費用なので、広告の表示費用…たとえばサーバの稼働時間, 掲載者におけるページスペースの提供など…に関わる測度です。新聞の広告料が、読者が実際にその広告を見たか読んだかでなく、単純に発行部数で決まるのと似ています。ところが、いわゆる広告業界においては長年、これがあたかも広告の「価値」を表す第一等の測度であるかのような錯覚と迷妄がばらまかれているため、この記事の筆者の憤懣が爆発しています。広告の「価値」は、その製品の売れ行きへの貢献ですから、要素は複雑多様で(たとえば広告企画に込められているおもしろいクリエティビティ)、CPMのような単純な測度はありえません。要は、CPMとは何の測度かということを、正しく冷静に理解して使えば、この記事に書かれているような悪者扱いされることにはならないでしょう。
最後の訳注が、一番、的を得ていますが、そうも言ってられない方々もいるでしょうね。
(´Д`)ハァ…


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